倫理の上にしか論理を立たせない

┃倫理と論理の順番

日々暮らしていると
「それって倫理と論理の順番が逆じゃない?」と思うことがあります

この違和感はどういったことなのか
頭の整理を含め、考えを書き起こしてみました

・・・

ぼくは倫理が全ての思考の基盤(ベース)にあるべきだと考えている

それは人として正しいことをすべきという思考が前提のもとに
あらゆる意思決定を行っていくということ

この前提が無いとどうなってしまうか?

たちまち思考は
”倫理という目的”に向かって論理を構築していく作業になってしまいます

これは文字だけを見るともっともらしい順序なのですが
実は非常に危険な状態だと考えています

┃倫理は目的ではなく「前提」

僕ら人間は生きているだけで複数の目的を抱えて生きている
その粒度は様々で

職場で課せられている仕事や
家庭での役割

それから
美味しいごはんを食べたい
楽しいことして遊びたい など
多くの人が持つ欲求も目的の一部

図 右は
倫理ベースが無い場合
(※図ではempty=倫理のベースが無い ことを指す)

この場合
倫理的目的と私利私欲も含めた人間的目的が同じレベルになってしまい
「これも大切だけど、あれも大切」の状態
になります

人として正しいことをやらないといけないのですが
自分自身だけが得られる利益や楽しさも並列に存在している状態です

そんな”すべてが大切な状態”では
意思決定を行うことが難しくなり
結果 何かを決めることに大きな時間を要してしまうことになる

それから多くの場合
人として正しいことを行うよりも
自分自身への利益を優先する場合が多くなってしまう

図 左は
倫理ベース(Ethics)が構築されている状態を示します

この状態が出来上がると
全ての意思決定のスピードが上がります

これは意思決定の根底が倫理観で作られているため
私利私欲などの目的をすぐに排除してくれることが大きいからです

そのため人としてやるべきことが明確になり
不必要に悩むことは少なくなります

さらに意思決定のに関してはどうだろうか

倫理観ベースが強い意思決定者がいる場合
「とりあえず楽しい思いをしたい」といった
短期的な思考を防ぐ効果が一定あると考えており
結果的に良い質が担保された意思決定につながると僕は考えている

つまり倫理ベースの構築は
長期目線を構築することにつながっていく

┃倫理ベースが無いと倫理は一つの目的に過ぎなくなる

倫理観ベースが構築されていない状態を

人として正しいことをやらないといけないのだが
自分自身だけが得られる利益や楽しさも
並列に存在している状態

として表現したのですが
現代の経済の中で
具体事例を挙げるならば下記のような例があります

・不安感を煽りサービスの購買を促す広告や
・名ばかりのSDGsを掲げる企業

前者の場合は倫理観の構築ができていないために
(短期的な)経済的報酬を最大化させることが
最優先の目的になってしまい
表現の質や人に与える影響を鑑みれない状態になっています

インターネット・SNSが発達し
資本主義の力が強まる中で広告枠は増え続けていますが

その中でいかに効率よく経済的報酬を最大化できるかと考える人が
増えてしまったためにこのような事象が起きてしまうと考えています

後者は昨今 (※現在2021年) で特に語られるようになった
サステナブルやSDGsの”目的化”の話

自分たちの事業は守りつつ
株主のために更にお金は稼がなければいけないし
でもSDGsも気にしないとね

といった具合に複数の目的が混同し
結局抜本的な行動変容が起きていない状態を指します

本来SDGsなど倫理的行動は目的ではなく前提なのではないかとぼくは思っている
これは前述した倫理と論理の順序の話と同じ構造

SDGsを目的に行動していきましょうと議論されている事自体ナンセンスで
語らずともそれは前提として議論を進めていかねればいけないのではないか
と思う瞬間が多々あります

(もちろんやらぬ善よりやる偽善であるし、議論され始めている事自体がポジティブな変化と捉えることもできますが、人間の都合で環境問題は止まってくれない)

┃倫理ベースが無いと疑問を持てなくなる

それから倫理がベースにない場合
既存のルールに疑問を持てなくなる怖さもあります

人間は基本的に所属するコミュニティの”ルール”に従い生きている

国であれば法律であり
会社であれば決まりや培われた社内文化
学校であれば校則 など

倫理ベースがない場合
思考のベースは「人や世界にとって」ではなく
そのコミュニティ内でのルールが思考のベースとなる
こうなると新たな意思決定が難しい

・校則だから
・昔からやっているから
・ここのルールだから
・うちの文化だから

そんな言葉が出るのは倫理がベースにない証拠

そうなると
「人として正しいのはどちらだったろうか?」
「今の時代に沿っているものはどちらだろうか?」
「今やるべきことはなんだろうか?」
などとゼロベースで物事を考えられなくなり

「前例に習ってやりましょう」


と”誰しもが納得できる選択”が生まれ
短期では安心で長期では悲劇に繋がる社会が進んでいく

時代や環境は移り変わるので
常に新しい行動様式を取り入れ
様々な意思決定をしていかなければいけないのですが

社会が一向に変わらないのは倫理ベースが無いことが
大きな足かせになっていると僕は思う

┃倫理と教育

最後に

この倫理ベースを育てるためには
やはり教育体制を変えなければいけないと考えています

性善説を前提に考えると教育なんか必要ないだろう と
人は正しい方向にいきそうですが
現実、社会はそうなっていない

あらゆる欲望が有象無象にあり
倫理観を欠いてしまう事象が多発しています

だからこそ教育で
その倫理ベースを作らなければならない

今の日本社会では一見”良い事そうをしている”
見せかけの行動が多くは生まれ
しかしながら時間と共にあらゆる”良い事”が
風化していく社会になっていないだろうか

教科書の知識を詰め込むだけの教育は終わりにし
答えの無い問いに対して思考する力が必要

倫理ベースを構築するための教育を
今一度考えるべきだと思う

金田謙太
「倫理の上にしか論理を立たせない」

 
Previous
Previous

「経済性」と「自己表現」のあいだで