計画は感動に蓋をしてしまうことなのかもしれない

休みの日に大きく人流が増える東京では

お店の客席はすぐに埋まってしまうため

飲食店の予約というのは珍しい行動ではありません。

ただ僕は店前の列に並んでまで

ご飯を食べるという行為ができない。

コロナ渦の中で自粛する飲食店がほとんどだった時期では(※2021年8月に書きました)

事前にどんなお店が空いているかを確認して

予め予約をしていくことが平時のとき以上に必要な行動になっていました。


ただそんな時期でも突発的に「ご飯を食べて帰ろうか」なんてときはあり

行きあたりばったりでご飯屋さんを探すことになります。



とある日。

知人との予定で「サクっとご飯を食べてから帰ろうか。」と話になり

その日の夕食場所を探すことに。



比較的、都の要請に従っているお店が多かった銀座では

空いている飲食店を探すのは難航しました。


それでも探し始めてから小一時間ぐらい経ったころに

偶然22時までオープンしている店舗を見つけることができた。

これは難しいかな…と思っている矢先だったので

「やっと見つかった…!」と小さな歓喜が生まれます。



”お店が見つからない中で、空いている飲食店を見つけました”

なんていう特別に書くまでもないお話かもしれませんが

この体験が「計画性」について深く考えるきっかけとなっていました。


それは僕らは生活の中で計画を建てすぎていて、

たくさんの喜びを無くしてしまっているのではないかと言うこと。

別の見方をすれば、計画をすることは感動に蓋をしてしまうことなのかもしれない、と気付いたことです。

そしてこれは自分自身に対してと、

少しだけ日々の生活にわくわく感がなくなってしまった人たちへ

人生に、ほんのちょっとの無計画を入れてみませんか?という提案。


毎日の生活ででもいいし

旅をしているときでもいい

人によってはキャリアの選択でもいいかもしれない。



計画をしていなかったときに起こる予期せぬ発見は

人生にほんの少しの豊かさを与えてくれると僕は思う。



お店の予約を一つとってみてもそうですが

今は何かと”計画がしやすい社会”になっていると思う。


だけど計画をしていてもどうせ全てが計画通りに行くわけじゃないし

あんまりそんなことを考えすぎなくてもいいんじゃない?とも同時に感じる。



もちろん計画性あること全てに対して否定をしているわけではない。

何かを成し遂げるには計画は必要。

だから計画と無計画のバランスを楽しんでみるのはどうだろう。


ちょっと寄り道してみること。

行きあたりばったりでごはん屋さんを探してみること。

旅行中に地図を見ないで歩くこと。


計画だけの人生ほどつまらないものはない。


ほんのちょっとの無計画性が

人生にすこしのスパイスを加えてくれると思う。

「計画は感動に蓋をしてしまうことなのかもしれない」
金田謙太

 
Previous
Previous

3521+d

Next
Next

「経済性」と「自己表現」のあいだで