終わることの考察

先月、はじめて”展示会”というものを行いました。
そのときに考えた「終わること」の考察です。

思えば学生の時は「卒業」があり、
部活には「引退」があり、
文化祭には「最終日」があった。



一方で、いわゆる"社会人"になるとなかなか終わることが難しくなる。
あえて言うとすれば定年退職ぐらいだろうか。
それ以外、例え「退職→転職プロセス」を経たとしても
学生時代のあの"終わった感じ"は帰ってこない。



更に自分のように世間で言われる”独立”などをしていると
余計に感じづらい状態になる気がしている。
経営にはもちろん終わりはないし、一つプロジェクトが終わっても
常に複数の事象が蠢いているためとにかく走り続けている感覚が続く。



視点を変え人間関係はどうだろうか。
友達にしても恋人にしても「終わることを前提に付き合いましょう。」なんてことはまずない。
人間関係には終わりは存在するが、一般論として続けることの概念が纏わりつく。



今回のことを考えるきっかけになった展示会は
3日間という会期を設定していたために
そこに続けることの概念は一切なく
つまるところの学生時代のような「終わり」を感じられた。

そこには一つの明確な区切りがあった。




そのときになんとも言えない感情が生まれていました。
つまり続くという概念を纏わない終わるという現象にしか作れない
人間の感情というものがあると思っていて、
今回の展示会ではそんな気持ちを思い出しました。



続く人生の中で、いかに終わることを作れるか。
新しい感情を覚えるためには、
終わる未来も作らなければいけないのかもしれない。

「終わることの考察」
金田謙太

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