概念と思考の距離

言葉という存在が窮屈になることがある。

言葉は人と人とが意思を伝え合うツールとして発達してきた。

そうすると言葉という存在は
過去の誰かが意思疎通を図るために物事を概念化したものであり
ある種、その概念化した人物の思考に依存した制約のあるコミュニケーションだと言える。
言葉の窮屈さを感じるのはこのせいだ。

この話を思考と概念の距離として考える。
言葉はおそらくその距離が近すぎるのだ。

言葉が現れるとき、それは良くも悪くも
特定の概念を瞬時に色濃く表出化させてしまう。

その他のクリエイションを通したコミュニケーションは少し違う。
例えば服を見るときに自由を感じられる。
それは服に関しては思考と概念の距離が遠いことにあると思う。

服を見たときに「かわいい」「かっこいい」と思うかは人それぞれ。
つまりそこには概念の”ゆれ”のようなものが確かに存在する。

個々の概念化の”ゆれ”が存在することは
思考との距離が長い証拠であり
それは思考の自由を得ることであると思う。

言い換えれば言葉にはその表出化された後の
概念に思考が入り込む余地があまり無いように感じる。

しかし言葉を使わない表現には複数の概念が入り込む余地がある。

その余地は余白としていつもそこに存在し
自由を与えてくれる世界となる。

これは言葉よりも言葉以外の表現が優位だと言っているのではなく
世の中全てのもの それは言葉、アート、音楽…なんでもよいが

これらのものと自分の思考との間には確かに距離が存在していて
ぼくらはその距離の中で自由を得ているということだ。

「概念と思考の距離」
金田謙太

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