僕が英語を話せるようになったのは

「けんたさんは英語を話せるからいいですね。」

と言われることがあります。


たしかに英語を話せるようになったことで世界中の人たちと会話ができるようになりました。

仕事の幅も広がります。

また、英語で本を読んだり、海外のyoutubeも字幕なしで見ることができるため、

日本語訳されていない情報も取り入れられることも大きなメリットかもしれません。


昨今、英語教育が注目を集め英語のレッスン企業が上場するほどの市場があります。

2020年から英語の授業が小学3年生から義務化もしましたし、

英語を学ぶことは素晴らしいことかと思うのですが…

僕にはこの現象がちょっと違和感に感じていました。


聞くところによるとレッスン企業の受講者はキャリアアップのため、海外駐在のためなど

お仕事周りの目的が多いと聞きます。

また、小学生から英語を学ぶ目的に関しては「将来きっと役に立つからね。」と

ふわっとした回答しか出ていないのが教育現場の実情ではないでしょうか。


┃英語との出会い

すこしだけ僕が英語を話せるようになったきっかけを話します。

僕が中学校二年生のときの話です。



僕が生まれ育った当時の北海道札幌市は、

今でこそ世界中から旅行客が訪れていますが、

小さい頃はそんなに海外の方と出会う機会がある街ではなかったように思います。

もちろん自分が一人の学生でだったこともあるかもしれませんが。



中学二年生の夏休み。

友人に誘われたイベントでアメリカから来た方と出会う機会がありました。

もちろんそのときは英語なんて話せません。

だけど「本当にアメリカから来た人なんだ!」と緊張しながらもHow are you?と一言はなしてみました。



そうするとニッコリと笑顔でI’m good!と返事をもらいます。

その返事をもらえた瞬間、僕の心は本当に飛び上がり喜んでいたと思います。

それは英語が通じた、という感動もありますが、

海を超えて異国に住んでいる方と繋がれた事実に喜びを感じました。

将来英語を話せるようになる、と決めたのはそのときだったと思います。



翌朝そのとき一緒にいた友人と、

英語の先生の南部先生のところに行き

「先生、朝のホームルームの前に僕らのために英語のレッスンをしてください。」とお願いをします。

南部先生は嫌な顔を一つすることなく「お、よしやろうか!」と返事してくれました。

今考えると先生はやることがたくさんあったはずだろうに本当に感謝です。



8:30から始まるホームルームの30分早く、

8:00からスタートする僕ら二人のためだけのプライベートレッスンがそこから始まります。

そのときから英語を勉強することがとにかく楽しかった。

それからと言うもの海外に短期留学したり、

大学から正規留学でアメリカに長く住む機会を両親にもらい毎日たくさん勉強する中で、

英語を話せるようになりました。



「◯◯のための教育」

さてちょっと自分のエピソードが長くなってしまったのですが、

僕が問題提起したいのはキャリアアップのため、

給与を上げるため、世界で活躍するため、などの

「◯◯のための教育」は生きる上でどれだけ大事なのだろうか、という疑問です。



外国語を習得することは素晴らしいことだと思います。

僕も「◯◯のため」で学んだことはたくさんあります。

一方で日本では英語に関してはちょっと意識しすぎているのではないかと思ったりしています。



◯◯のため、という目的意識が強すぎると生きる喜びが無くなるというか…

なんかちょっと生きる上の大切なものからズレている気がしてなりません。



つまるところ「◯◯のための英語」を学ぶよりも、

自分の心が喜ぶことを見つけて、そこに時間を使ったほうがよっぽど豊かな生活になっていくと思うんです。

英語を学ばなくても、石を集めることでも、四葉を見つけることでも、

心が豊かになることであればもっと自由に想像して探求していいはず。

日本の「英語英語!」と叫ばれる社会には自由がない気がします。

それってあなたが本当にやりたいことですか?

子供たちが本当にやりたいことですか?

と思ってしまう。



手段としての英語が話せるようになった上でその先に豊かさがあるんだ!と反論もあるかもしれませんが、、、

コト英語に関しては、ちょっと意識が強すぎるように感じるのです。



┃楽しいから、やる。

僕が英語が話せるようになったのはシンプルにそれが喜びだったから。

将来役に立つとか、キャリアアップとか少しも考えたことがないですし、興味がないです。

英語を話せることが嬉しいから、楽しいから。それだけ。

砂場で遊んでいる子どもたちと何ら変わりません。



道を迷っている人に声をかけ仲良くなったり、

英語のメニューがなくて困っているお客さんとレストランでお話できたり、

そんな些細なことが僕にとって幸せです。



つまり僕にとって英語を学ぶことは自分らしくあることの一つだったわけで、

南部先生にプライベートレッスンを頼んだのも、

留学をしたのも自分が楽しい生活を送るために行動しただけでした。

それが英語を話せるようになったたった一つの理由。

高尚な理由は何もないんです。



英語を勉強してから10年以上経った今でも、

僕にとっては「英語を話せる。世界の人と繋がれる。」ということが心の拠り所です。

大げさではなくそんな気持ちを感じられるだけで生きる力が湧いてきます。



だから「けんたさんは英語を話せるからいいですね。」には少しいつも違和感を覚えます。

それはどことなく、英語を話せるから「◯◯ができて」いいですね、に聞こえてしまうからなんだと思います。



そんな感じで、それぞれの人にとっての幸せや豊かさみたいなことがもっともっとあるはずなのに、

今の日本はの英語に関してはちょっとやりすぎなところを感じます。

んー、、表現がむずかしい。



英語を勉強することを否定するわけではありません。

目的のために勉強することはかっこいいし、止めなくてもいいと思います。

ただそれによって日々感じられる豊かさを失ってはいけない。

それを教えてくれる大人が少ない。

もっと自分の心のために生きてもいいんだ、

と教えてくれる大人が本当に少ない。


だから僕はもっと自分のために生きよう、と言いたい。

自分の感性を満たすことに時間を使おう。



最後に、南部先生ありがとう。

「僕が英語を話せるようになったのは。」
金田謙太

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