未来の自分にバトンタッチ

僕は社会一般的な目線からすると比較的早いうちに独立していると思う。所謂サラリーマンとしての生活は約2年ほど。
2016年に新卒入社し、退職は2018年の頭でした。



それからと言うもの新しく事業を立ち上げたり、Webサービスを作ってみたり、創作活動をしたり比較的様々なことを始めてきた。
住む場所も自分の家を無くしてみたり、バンコクと二拠点生活をしてみたり、ニューヨークに行くこともあった。
今は縁もゆかりも無かった京都に住んでいる。



こんな過去を持っていると、行動力があり、さぞ優れた人なんだろうといった評価を受けることがある。
だけれどこれは僕の自己評価と大きく乖離していて
どちらかと言うと赤ん坊が無目的(に少なくとも見える)にあっちに行ったりこっちへ行ったりする形で、
自分では感じたままに動いているだけだと思っている。



もちろん、こうすれば自分のやりたいことに近づくかもしれない、
といった合理的な判断が常にゼロかと言われれば嘘になるけど、基本的には「感じる」ことが最優先
これは合理性を超えた瞬間にしか人生は動かないんだという僕の哲学。



こうして「感じる」ことが一番先頭に立っているからこそ
「行動力があるね。」「優秀だよね。」といった言葉とは違う感覚が自分の中にあるのだ。



僕は今この瞬間に感じたものをやっているだけなんだと思う。
でもそれは「やってやるぞ!」と言った気張った気持ちというより、
「これやりたいと思ったから後は頼んだわ!」とやることだけ決めて後は未来の自分に任せているイメージが近い。



つまり僕が常に行っているのは「ちょっとどうなるかわからないけど、きっと何とかなる。あとは頼んだ!」と
未来の自分にバトンタッチしているだけなのだ。



だからこそ過去の自分では想像していない場所に現在たどり着いていることが多く、
今の自分から次の自分にバトンを渡していったら、今の場所にたどり着いている感覚。



もちろん明確な目標や夢があり、そこに合理的に行動できている人もかっこいいと思う。
これはどちらの生き方が良いか、悪いかとかそういった話ではない。



だけどもし少しでも違和感を感じつつ生きているのなら、何かやってみたいことがあるけど漠然と不安を感じているのなら、
「知らんけど後は頼んだ!」と未来の自分にバトンを渡しちゃってもいいのかもしれない。
今の自分がバトンを持ちつつけてしまうと、次の自分が待っているのにいつまでたっても走れなくなっちゃうから。



それからバトンはきちんと自分で持っていてほしいと思う。



「今辞めたら迷惑かけてしまうから。」
「このイベントが終わってから。」
「ボーナスをもらってから。」
「親になんて説明すればいいかわからないから。」



バトンを渡そうとしているときに、主語が自分じゃなくなるのは自分でバトンを持てていない証拠。
自分の人生なんだから、自分のバトンは自分で持つ。人のせいにしない。社会のせいにもしない。



人生のもやもや感というのは、
次のランナーが待っているのにバトンを渡せていないときに生じる気持ちなんじゃないかと思う。



人生のアンカーまではまだまだ先は長い。
それまで楽しみながら走って走って、疲れたら休んで、バトンを渡しながら生きてみるのはどうだろうか。

「未来の自分にバトンタッチ」
金田謙太

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