目に見えるものが全てではない
人間の「認識」という能力は
時になんて脆いものなんだろうと思う瞬間があります
人は言葉になっているものばかりを認識するし
言葉になっているものばかりに価値が付く
目に見えることができて
言葉になっているものばかりが世界に伝わっていく
それは生きていると当たり前のことのようにも思えますが
でもそれではこの世界に数多あるまだ言葉になっていないものへの価値は
蔑ろにされすぎていないだろうか
僕はこの問題に対してよく頭を悩ませます
高校生のとき卒業論文で
「Non-verbal Communication(非言語コミュニケーション)」という題材を選んでいました
そのときなぜそれを選んだかを明確には言えませんが
自分の中ではごく自然な行動でした
言葉にならないものに惹かれていたからだと思います
それからというもの
ビジネスの世界に入り、言語化の重要性を学びながらも
言葉にならない、目に見えない美しさへの気持ちは薄れることがなかったと感じています
目に見えるものや言葉が溢れている時代だからこそ
まだ概念化されていない余白の価値を改めて考え直したいと思う
そして、余白とは独自の意図で概念化できる可能性のことだと伝えていきたい
この余白こそが、僕ら人間にとっての自由だと思う
余白にいる時間だけは人の概念で生きる必要がなくなる
誰かの作った常識を持つ必要がなくなる
言葉が無いときに初めて人類は思考の自由を得られる
僕らはそれぞれに独自の視点があってそこにこそ価値があるからこそ
概念の無い世界で泳ぎだすことが必要なのではないか
金田謙太
「目に見えるものが全てではない」