「せかい」と「ことば」

2021年は多くの人と会わず自分自身に対して向き合い続けた1年でした
そんな向き合いの中で整理できたことが多々あり

特に自分が表現していきたいもののベースになっている哲学を整理できたことで
これからの強い土台ができたと感じる大きな変化の年でした

今日はそんな整理をする中で欠かせなかった
「せかい」と「ことば」について書きたいと思います


┃ことば

何か表現するときに
僕はまだ言葉になっていない
新たな概念を創り出すことに意思を注ぐことが多いです

”言葉になっていない”とは
未知の世界のことであるのですが
その一歩目は逆の世界である「既知の世界を認識する」
ところからはじまります

そして既知の世界とは主に「ことば」のことです
ことばとは人と人が情報を伝えるために必要不可欠なツール

形にならない想いを他者に伝えたり
先人たちの知恵を受け継ぐことができたのは
どちらも「ことば」という存在があったからこそ成し遂げられました


でもぼくはその「ことば」の中に居たくないないのかもしれない。

シンプルだけどはっきりと言い切れていなかったこの違和感を
口にすることができるようになったことが2021年の大きな変化です

その背景には「ことば」が表している感情や状態、概念が
あまりにも限られたものだと気づいたことにあります

ぼくはことばに対して窮屈になるときがありました

この世界の中で言葉になっているものはほんの一部にも関わらず
多くのコトが今ある言葉だけで表現しようとしている
そこに居心地の悪さを覚えます

だからこそ僕は余白に目を向けていたい
言葉がないことは、可能性であるから
今の言葉に囚われたくない

未知の世界の中で発想していたいと思うのです
この「せかい」と「ことば」の関係性を知ることが
既知の概念を認識することであり

このことを整理できたことで
僕はなぜ余白が好きなのか
なぜそこに目を向けて表現をしたいのかを
深く理解することができました

┃ファッション

この変化のきっかけになったことは
ファッションデザイナーへの関心です

Martin Margielaへのドキュメンタリー映画を皮切りに
世界中のファッションデザイナーについて調べ始めました
(今年はMargielaの新しい映画も日本で公開された年でしたね)

言語化ができない世界で
こんなにも自分たちの哲学と美学で
表現を試みている人たちがいるんだ と
ただただ知ることが楽しくて夢中になりました


多くのファッションデザイナーを知っていく中で
上記の通りMartin Margielaや
日本で強く馴染みのあるPaul Smithなど
強い共感を覚えるデザイナーに多く出会ったのですが

その中でも特にデザインに対する哲学や考え方
もちろん服自体のデザインにも共鳴したのが三宅一生さんです


彼の視点で服という既存概念に囚われず常にアップデートさせていった哲学や
希望への考え方、多様性への想い など

言葉で表現することが難しいですが
絶妙な思考の積み重ねが今のIssey Miyakeというブランド哲学の根底を作り
デザインの細部まで落とし込まれる様子は
心揺さぶるものがありました

言葉にできるのなら、服はつくりません
-三宅一生

そして何よりもこの言葉が
この人も「ことばのない世界」で表現し続けているんだ と
どこか(烏滸がましながらも)近しい視点を持っているのではないかと思わせてくれました

┃定義ではなく「視点」

これから自分が表現していくにあたり意識していたいことは
定義することではなく「新しい視点を表出化させること」です


”○○はこうあるべき”
といったことを言及をするのではなく

”○○はこう見える”
といったことを伝えたい

だから定義ではなく「視点」


僕は言葉になっていない世界に目を向けることは
可能性に目を向けることであると本気で思っているし
希望を見出すことだと思っています

視点が変わるだけで
見える希望の数が増える

視点が変わるだけで
見える世界が変わる

そんな現象を起こすことができれば
より多くの人が希望を持ち生きていくことができる

何にも囚われない自由な世界で
表現をたくさん行っていきたい

金田謙太
「せかい」と「ことば」

 
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