世界をじっくり見ない
好きな場所はどこですか?と聞かれれば、「本屋さん」と「美術館」と答えます。
京都には大好きな本屋さんがあって、
ここの選書は今まで出会ってきた本屋さんの中でずば抜けて良いんです。
この本屋さんに行くと自分が今何を求めているのかが理解できます。
言語化できていなかった感情が、手に取る本を通して形になっていくイメージ。
自分にとって次に何をするべきかの示唆を与えてくれる場所になります。
一方、美術館では示唆というより新しい視点を与えてくれる場所になることが多いです。
「こんな世界の見方をしてもいいんだな。」とか「これからはあえてこうやって物事を捉えてみようかな。」とか
アーティストたちの視点を借りることによって前向きな意味で批判的に世界を見れるようになります。
そんな本屋さんや美術館ですが、
最近は意図的にじっくり見ないようにしています。
特に美術館においては作品をゆっくりと見ながら鑑賞することが一般的かと思いますが、
僕はスタスタ〜と流れるように歩いていきます。
せっかくチケットを購入して入った展示でも、数分で出ることが珍しくないです。
せっかく行ったのに勿体ない、と思わないかと言えばちょっと思います。
ただ、じっくり見ないことで本当に心の琴線に触れるものがわかると言いますか、
理解しようとして理解するものではなく、
自分の心が動く対象だけに時間を注ぐようにしているんです。
それぐらい人の心というものは自分の感性に触れるものがわかっているというか、
じっくり見る必要ってそんなに必要ではないのでは?と考えるようになりました。
自分の頭の理解よりも心の感性を信じるイメージ。
もしかすると物事をじっくり見るのではなくて
自分の心をじっくり見るように変化させたのかもしれません。
外より中。とにかく中を見る。
そうすることによって初めて”外”を見れる。
逆説的ですが外の世界は、内の世界を見続けることによってのみ観察できるものになるのかも。
最近読んだ本で、
日本語には「腹が立つ」「腹を割って話す」「腹黒い」と言葉があるように、
日本人の感情は腹から発生していたのではないかと書いてあり関心を持ったことがあります。
※ちなみにここで言う”腹”は、古事記の中では”心”のことを指しています。
しかし現代では心が内蔵にあるという感覚が希薄になり、
「腹が立つ」は「”頭”に来る」に変化し、
あらゆることを「脳」で考えるようになってしまい様々な問題を引き起こしているのではないかと。
ここで言う「じっくり見ないこと」とは
現代人が失いかけている「内蔵感覚」を取り戻すことになのかもしれないなと思いました。
つまり「心」を取り戻すということです。
今度本屋さんや美術館に出かけるときには
是非じっくり見ないで過ごしてみてはどうでしょうか。
「世界をじっくり見ない。」
金田謙太